バレンタイン幻燈


 スイートでキュートな香り。にわかに活気づいた放課後のそこかしこに満ちている甘い甘い雰囲気。
まるで、ここはお菓子屋さん。2月14日、今日だけ特別オープン『リリアンチョコレートショップ』にござーい。
「なーんてね」
 聖はフフッと笑みを浮かべると、ひとり、冷たい風の吹く銀杏並木を歩いていた。
今日はバレンタイン。校内のあちこちで繰り広げられる可愛い想いのやりとりに、
でも、なんとなく、この雰囲気は自分の居場所じゃないような気がして、ふらふら、と。
 あたし、この空気は好きだけど、ちょっと苦手だな。
義理チョコは何個でも大歓迎。でも本命は少し重くなっちゃう。受け入れてあげることができないから。
なぜって、それは、あたしの心の中に――
「…………」
 ふと聖はコートの襟を立てると、その奥で苦笑した。脳裏をかすめるあの子の笑顔に。
目を閉じると自分に言い聞かせるように、そっと呟く――寂しいなら、寂しいって言ってごらんよ―
―でも、それだけは言いたくなかった。だって、それを口にしてしまったら、自分は、あの日に束縛されていることになってしまう。
「やれやれ」
 再び自分に、にが笑いし、小さく肩をすくめた。なんとなく頭上を見る。すこし濁った水色の寒空。
ほとんど葉の散った銀杏の枝がまるで空のひび割れ。今日は、ただ甘いだけでなく、恋心を散らし、心に小さなひびを作るリスクもある日。
「罪な日だね……」
 吹く風に乱れる髪を指先に絡めて整えながら樹の幹に身を預ける。ひんやりした感触が背中にじわりと伝わった。
このままでは心も身体も冷え切ってしまいそう。
「さーて、祐巳ちゃんでもハグハグして帰ろっかなー」
 聖は「うしし」と、おやじな笑顔で銀杏並木を抜け出した。ひとりで気持ちをブルーにしてても仕方ない。
くるりと足を薔薇の館に向けた――そのとき、ふと視界に入ってきた何か。
「お?」
 木立の陰でうずくまって泣いている女の子。どうやら想い人にチョコを受け取ってもらえなかったよう。
この冬の空の下、放っておくわけにもいかない。
「あたしもお人好しだねー」
 誰に言うでなく、小声で話すと、その子の側に歩み寄る。そして、悲しく小さな背中に自分の外套をはらりと羽織らせる。
「え?」
 驚いて振り返る少女の顔。涙に目を濡らして痛々しい。だから聖はとびきりの笑顔で優しく接する。
「どーしたのかなー? こんなところに迷子の子羊ちゃん発見。このままだと風邪ひいちゃうよ。そーなったら、お姉さん、悲しいなー」
 濡れた瞳がきょとんと丸くなる。その背中を優しくぽふぽふ。
「元気だしなよ。ね? 難しいとは思うけどさ。でも、前に進まないと。ほら、お姉さんが、たこ焼き、おごってあげるから。
いつか、君の想いを受け取ってくれる人が――」
「ち、ちがうんです!」
 聖の言葉をさえぎって絞り出される少女の声。
「ちがうって……だって、チョコを受け取ってもらえなくて泣いてんでしょ?」
 今度は聖が目をちんまり丸くして訊ねた。
「私、私……誰にチョコをあげたらいいのか分からなくて悲しいんです!」
「…………」
 ぴゅーぴゅーと冷たい風がふたりの髪をくしゃくしゃに乱す。その奥で聖の目はちょこんと点になっていた。
「はぁ?」
 それが不思議な不思議なバレンタインの幕開けだった。

 その女の子の話を要約すれば、こうだ。
 バレンタインということで盛り上がっている校内。誰に上げようかしら。あの子はくれるかしら。どんなチョコを買ってこようかな。
今年はがんばって手作り? その甘い甘い雰囲気に流されて、本気になって作ったチョコレート。あまりに美味しく上手にできたのに
、ふと気がつけば自分ひとり。
義理であげるには豪華すぎる。かといって本命の人は、まだ、いない。そうして、自分が、孤独なことに気がついて、
それが寂しくて、悲しくて、あまりに滑稽で、泣けてきたのだという。
「なるほどねー」
 その話を聞いて聖はポリポリと頭をかいて困り顔。まさか、こんな展開、ちっとも想像していなかった。はてさて、いったい、どうしたものやら。
女の子は少し落ち着いたもののエグエグと喉を鳴らしている。
「バレンタインが終わったら、そしたら、もう、このチョコは……捨てるしかないんです!」
 そう叫んで、自分を追い込み、また涙をぽろぽろ。
「弱ったなー」
 その子をなだめるように肩をぽんぽんと叩きながら思案顔の聖。
 ふと、指をぱちんと鳴らすと、目許を綻ばせて満面の笑み。
「じゃあ、あたしにちょうだい」 
「えっ?」
 女の子は驚くと小さな紙袋をぎゅっと抱きしめる。きっと、そこにある大切な手作りチョコを守るために。
「もちろん、タダでちょうだいなんて言わないよ。これからデートしよう。で、君があたしのこと気に入ってくれたら、それをちょうだい。ね?」
 唐突な提案に女の子は固まってしまった。ぴくっと身体が動くと、目に残った涙をこぼしながらクスクスと笑い始める。
「ロサ・ギガンティアって、おかしな人ですね」
「お、あたしのこと知ってるんだ? これは光栄、光栄」
「薔薇さまであるロサ・ギガンティアを知らない人なんていません。でも、こんな気さくな人だなんて一般生徒は誰も知らないでしょうけど」
 そして、ふたりは目を合わせると、にこりと微笑む。
「ところで、あたしは、君の名前を知らないんだけど教えてもらえる?」
「え?」
 訊かれて女の子は顔を赤くして、はにかみ、うつむいてしまう。
「は、恥ずかしいから、ひみつです」
「そっかー。学年も名前もひみつの、ひみつ子ちゃんかー」
 なぜか腕組みをして、ひとり納得の聖。
「ところでさー、デートの返事、まだだけど?」
 聖がひみつ子ちゃんの顔を覗き込むと、そこには、にっこり笑顔。
「はい、お願いします」
 くすくすと笑う目はぱちりと大きく、鼻筋も通っていて、まるで舞台の娘役をそのまま連れ出してきたような可愛い子。
聖は、ひみつ子ちゃんの手をとると「ではエスコートさせていただきます、お嬢さま」と恭しく一礼。そして、ウインク。
はにかむその子を連れて銀杏並木を抜け出した。
 
「お? あそこにいるのは……」
 校門を出ようとしたとき、薔薇の館に向かって歩いている祐巳の後姿を見つける。
「ちょっと待っててね」
「あ、はい」
 そして聖は静かに祐巳の背後に歩み寄り、大きく手を広げて――
「祐ー巳ーちゃーん!」
「あ、ロサ・ギガンティぎゃーー!?」
 背後から祐巳を抱きしめると、ほおずり、ほおずり。
「うーん、あいかわらず、いい声で鳴くねー、祐巳ちゃんはー」
 祐巳は聖の腕の中で真赤になりながら慌てふためいている。それが可愛くて止められない。
「あ、今日は薔薇の館には行かないから、そう言っといてもらえる?」
「分かりましたから、離してくださいよー」
 わたわたと手を振り回すが、聖にしっかり抱きしめられて離れられない。
「あれ、どうして、館に行かないのか、訊かないの?」
「え? ど、どうしてなんですか?」
 そう訊かせて、にんまりと笑顔になる聖。親指でくいくいと向こうに立っているひみつ子ちゃんを指し示す。
そして、祐巳の耳元で小さく囁く。これから、あの子とデートなんだ。志摩子には内緒だよ。
「で、でーと?!」
 途端、目を白黒させ、あたりをきょろきょろと見渡し、百面相。
「じゃ、そーいうことだから」
「あ、あの、ロ、ロサ・ギガンティアー!」
 何がなんだか事情が飲み込めていない様子の祐巳。真赤になりながら呆然と立ち尽くしている。
「はい、お待たせー」
 ひみつ子ちゃんのところへ戻ってくると、なにやら、こちらも百面相……驚いた表情やら、嫉妬したような表情を混ぜこぜにした顔。
憮然と聖を見上げてきた。
「誰にでもあんなことしてるんですか?」
「んー、今は、あの子だけかなー」
「そうですか」
 ぷいと唇を曲げながら、つっけんどんに答えるひみつ子ちゃん。その様子がなんだか可愛くて、おかしくて聖は声を上げて笑ってしまう。
すると、ますます憮然とする女の子。ふと聖はコートの前を開けると、包み込むように、その子をコートの中に抱きしめる。
「ロ、ロサ!? ギガンティア……」
 耳まで真赤にしてうつむいてしまう。
「ひみつ子ちゃんも反応がはっきりしてて可愛いー」
 その言葉に、ぷしゅうと湯気をあげ、ますます赤くなっていく。
「ひみつ子ちゃんって呼ぶの長いね。愛称を付けよっか。うーん……ひみちゃん、み子ちゃん……みつ子、ミッコ……そうだ、ミッコにしよう」
「も、もう、なんとでも呼んでください」
 聖のコートに抱きしめられ、完全にうつむいたまま小さく答える声。ふとミッコを解放すると、その手をしっかり握り、自分のポケットにすっぽりおさめる。
「じゃ、行こうか、ミッコ」
「はい」
 今だけは、まるで姉妹のように、恋人のように。聖はその子の手をひっぱると校門を駆け抜けて、夕暮れの、淡い茜色の街へと飛び出した。

 あれから2時間ほど経っただろうか。辺りはすっかり夜色に染められて。ひっそりと燃える街路灯だけが淡い光を放っている。
聖とミッコは学園のマリア像前に戻ってきていた。
 バレンタインも終わりかけ、すこしひっそりとした商店街をウィンドウショッピング、デパートの屋上にあるミニ遊園地で観覧車に乗り、喫茶店で楽しくお喋り。
聖は「ミッコ、ミッコ」と何度も名前を呼んで。そして、再び、出会いの場所へ。ひみつ子ちゃんは小さな紙袋を抱きしめて聖と向き合っている。
聖はにこりと微笑んだ。
「それで、チョコをあげる相手は見つかったかな?」
 訊くと小さな紙袋を、ぶっきらぼうに聖の胸に押し付ける。
「あげます。でも……でも、本命じゃありませんから。義理でもないですけど」
「はいはい」
 しっかりと小さな紙袋を受け取って。顔を上げると、ミッコは駆け出していた。まるで照れくささから逃げ出すように。その背中に小さく「ごきげんよ」と呟く。
ふと手を見ると、その紙袋は淡い光となって形を失い、消えてしまった。でも、聖は全てを知っていたような、そんな顔でマリア像を見上げる。
「どうして、あたしを選んだんですか?」
 聖は、ある出来事を思い出していた。2年前、バレンタインの直前、交通事故で旅立ってしまった生徒がいたことを。
これからチョコをあげる相手を見つけ、想いを込めて手作りし、ドキドキしながら手渡す……そんな楽しい学園生活を送る前に召されてしまった少女のことを。
『誰にチョコをあげたらいいのか分からなくて』
 ほんの2時間前の、あの子の、そんな台詞が蘇る。学園の楽しさを知らぬまま、迷子の子羊になってしまったのだろう。
「あたしは、あの子を導くことができたのですか?」
 石像に問うても返ってくるのは無言の表情。
 あの子はゴーストかもしれない。途中で気づいた。祐巳には誰も見えてないようだった。街の人の反応もおかしかった。ひとりでデートしていたのだから。
でも、聖は最後まで。
「ま、あんな恥ずかしいこと、あたしじゃなきゃできないか」
 ひとり呟いて静かな笑みを浮かべる。
 そのとき、薔薇の館に、まだ灯がともっているのに気がつく。階段をきしませながら、二階の談話室の扉を開けると、そこには、ひとり、志摩子がいた。
聖の姿に気がつくと、いつものわずかな笑みを浮かべる。
「おかえりなさいませ、お姉さま」
「ああ、ただいま。どうしたの、こんな時間まで?」
「お荷物が、置きっぱなしだったので、きっと戻られると思って」
「あ、そっかー」
 すっかり忘れていた荷物を手に取ると志摩子に向き直る。帰ろうか。小さくうなずく志摩子。聖は扉を開け、部屋を出ようとして、自分の後ろを
着いてくる妹の手をなんとなく握った。
「お、お姉さま?」
 すこし驚いて不思議そうに姉の顔を見上げる。
「今日はバレンタインだから」
 そう言ってウインク。
 志摩子は、もう片方の手をかばんの中に入れたまま、所在無げに立ち尽くしている。けれど聖は気にせず歩き出す。よたよたと連れられていく志摩子。
「あたしにチョコくれる? それともデートして雰囲気作ってから?」
 言われて志摩子は頬を赤く染めた。
 聖は妹の手をしっかりと握りしめる。その手の温もりが心地よかった。外に出ると空は満点の星空。冷たい如月の夜に浮かぶ月。
 聖は志摩子の手をしっかり取って歩き始める。


 〜おしまい〜

 

瀝青さまにいただきましたSS第3弾はバレンタインデーのお話でした。
聖さまが素敵です。
瀝青さま、ありがとうございました。